約7千年〜6千年前の河内湾
梶山彦太郎、市原実「大阪平野のおいたち」より
























今からおよそ6千年前、大阪平野の北部は、河内湾と呼ばれる大きな入り江になっていました。

この入り江は、長い年月をかけ、淀川や大和川の流れによって流されてきた土や砂によって次第に埋め立てられ現在の大阪平野ができました。

淀川や大和川から流れてきた土や砂は、養分をたくさん含んだ良い土でした。
こうした良い自然環境で育ったオモダカが大きく進化をしたのが、吹田くわいです。

オモダカというのは、吹田くわいの祖先にあたります。
何万年も前から日本に自然に生えてきた田んぼや水辺に生える植物です。

狂歌の展示(菓匠象屋
その後、吹田くわいは、吹田村で作られました。
えぐみが少なく、甘みがあり、栗のような食感でおいしいと評判になり、吹田の名産として有名になりました。


江戸時代を代表する狂歌師の蜀山人(しゃくさんじん)は美食家でした。

蜀山人は出張先の大阪で食べた吹田くわいがおいしかったことを思い出して
「思い出る 鱧の骨切りすり流し 吹田くわいに天王寺蕪」という歌で詠んだほどでした。

実際に吹田くわいは、大阪の名物番付に関脇に位置づけられていました。

その他にも豊臣秀吉が吹田くわいの評判を聞きつけ、京都の東寺に持ち帰り栽培を始めました。
それが「東寺くわい」と呼ばれるようになりました。

万葉歌の記念碑(千里南公園)
万葉集にも吹田くわいを詠んだ歌があります。

「君がため 山田の澤に ゑぐ採むと 雪消(ゆきげ)の水に 裳のすそぬれぬ」

これは、女性達が裾を濡らしながら、大君などに捧げる為に吹田くわいを収穫している様子を詠った歌です。

千里南公園には、その歌を刻んだ万葉歌の記念碑があります


くわい鴨形藁苞(吹田市立博物館所蔵)
江戸時代には、この土地は、京都の仙洞御所(天皇の父親にあたる上皇の住んでいる所)の御料地になりました。

この事から吹田くわいを、天皇をはじめ皇族の方にも食べて頂き、献上されるようになりました。
この献上行列は、天和3年(1682年)から明治維新まで続きました。

吹田くわいを献上する際は、吹田くわいを鴨の形をした藁苞(わらづと)に入れます。


献 上 籠
4の藁苞を、菊の御紋が付いた竹製の献上籠にのせます。

献上用の木札(吹田市立博物館所蔵)
表には「仙洞御所御用」・裏には「摂津島下部吹田村」と書かれた木札を竹にさして、庄屋、年寄り、大百姓らが付き添い行列したといいます。

大名の行列ですら、道を譲るほど当時の吹田くわいには権威がありました。

吹田くわいの奉納行列
ところが、近年の宅地開発の影響で田んぼが減ったことなどが原因で、吹田くわいは、幻の野菜とまでいわれるほど数を減らしています。

こうした事から、現在吹田くわい保存会をはじめ、多くの機関が保存運動ならびに、市場への流通を目指し活動されています。

その活動の一環として毎年「吹田まつり」では、市民の方々に吹田くわいの歴史や伝統、文化の大切さをわかってもらえるように献上行列を再現した吹田くわいの奉納行列を行っています。
文責・資料提供・・・・・吹田くわい保存会会員 辻本 武志・奥村真由美 /  編集・・・・・・吹田くわい保存会会員 奥村真由美                                                       


inserted by FC2 system